「なぜ学位論文(博士)は英語で書かれねばならないか」

はじめに

 「なぜ学位論文(博士)は英語で書かれねばならないか」その答えは、「それは現在がグローバル化した21世紀だから」です。その理由の一部ではありますが、本質的部分でありわかる人にはそれで通じる、論議不要の話だと思います。ですが、確認の意味を込めて、下記に記します。

 

 まず前段として「論文」および「学位論文」について述べます。多くの定義があるでしょうけど、以下のように考えることができるでしょう。

・論文とは

「自分たちが発見した「他の人々」にも伝える「科学的」価値がある(と信じる)事柄をその人々にも価値がわかるように作成した文章」

・学位論文とは?

「学位申請者が全てのプロセスで主体的に研究(*)を行ったIndependent Researcherである証明にたる成果物としての論文」*ここで言う研究とは、全ての意味の科学的探求を含みます、その対象が遺伝子であれ、疾患であれあるいは社会であれ)

1. グローバルな情報発信でなければ意味はない

 学位論文のテーマにおいては、「(日本ではなく)世界で一番詳しい」はずです。学位審査においてはそれらを満たしているかを審査委員は見きわめ、学位を与えるにふさわしいかを検討します。またこれ以前の事として、「論文」ですから、原著であるかどうかに関わらず、その内容は人々に伝えるべきメッセージが含まれていることが必須です。

 

 学位審査の経験として、快い気持ちにさせてもらった事例をあげます。並みいる数名の学位審査委員を前にして発表をするわけですが。その人の発表の道具立てや進行はやや稚拙で、わかりにくい部分もありました。こちら、つまり審査する側が経験豊富なのですから当然と言えば当然です。ですが、その内容に本当に独創的な部分が含まれていて、かつその分野のあるべき方向を指し示していた。そこで私はこう思いました、「あなたのストーリーをもっと聞かせてよ、その一番独創的なところ(Edge)ではあなたが一番詳しい。だから、私たちに教えて、私たちが学び手です」。そしてこのメッセージは、この場合幸運な私たち審査委員は本人の話を聴けます。ですがそれ以外の人々は、そうではないので文章にしたもので接するしか方法がありません。この価値ある文章が日本語で書かれるべきか、あるいは英語で書かれるべきかは、読み手の母集団がわずか1億人なのか(前者)、あるいは世界の数十億人(後者)であることを考えれば自明です。それが冒頭の答えの意味です。

 

 先日、ある会議でこんなことを耳にしました。ある疾患ですが、その現在主流になっている治療法は日本人によってかなり以前から開発されていた。しかしそれを国内の限定された発表に留めてあったために、国際的には認知されず他国からの発表に先んじられた。日本の先駆者たちは経験を重ねており、にもかかわらず世界に広まらず残念である、と。素晴らしい研究成果は、1国だけでなくて世界の人々に貢献するべきであること、言うも愚かほど明白です。国内の発表であれば、抄録は英語であったかもしれません。ですが、論文本体を理解できない言語で書かれた論文など、引用文献にもできません、内容が理解できないのですから(術式など実践に関わる論文など、さらにそうでしょう)。例えば私は自分の論文を書いていて、抄録英文、本文フランス語やドイツ語の論文に出会うことがあります。残念ながら役に立ちませんし、外国語事典と首っ引きで取り組む時間もありません。先日、米国の研究者の友人について同様の質問をしたところ、つまり抄録英語で本文が日本語の論文はどうすると聞いたところ、同じ答えでした(当たり前と言えば当たり前です)。

 

 それから、この疾患については、忘れられない経験があります。1982年に医学部を卒業して研修を開始し、回った病棟にこの疾患の患者がいました。数か月でその病棟から離れましたが、後日この患者がなくなったと知りました。研修医として何もできなかった自分ですが、それでも無力感のようなものを覚えた、それが記憶の片隅に残っています。そこで、前述の日本人が開発した治療法を知って愕然としました。私が小児科を回る20年以上も前にそれが存在していた! 私が無知だったのかもしれませんが、国内外で(当然英語ででしょう)情報発信がされていて確立された治療法として普及していたら、と思う気持ちはやみません。

2. 学位審査側の責任性

 前述の1とは視点を逆に変えてみます。学位論文は、審査するのですから審査委員はその内容について外部に対しても一定の責任を持つと言えます。その学位論文に記載されている全ての部分において、引用していない部分は著者のオリジナルなのか(裏返しとして必要な引用がきちんとされているか)もまた、審査委員の仕事と言えます。ですがこれはかなり骨の折れる仕事で、ついつい「性善説」に立ちがちです。ですが、それでは、つまり性善説だけでは責任を全うできないでしょう。

 

 最新のTopicとして、STAP細胞の作成成功を発表した小保方論文をあげます。

・小保方氏の博士論文、米NIHサイトと同じ

2014/3/12 0:45

 新型万能細胞「STAP細胞」の論文を発表した理化学研究所の小保方晴子研究ユニットリーダーが、博士号を得るため早稲田大に提出した英語の博士論文の冒頭部分が、米国立衛生研究所(NIH)のサイトの文章とほぼ同じだったことが11日、分かった。博士論文は、骨髄から採取した細胞がさまざまな細胞に変化できることなどを示したもので、2011年2月に発行された。約100ページの論文のうち、冒頭の26ページを割いて幹細胞研究の意義や背景を説明しているが、うち20ページはNIHの「幹細胞の基礎」というサイトとほぼ同じ記述だった。〔共同〕http://www.nikkei.com/article/DGXNASGG1103B_R10C14A3EA2000/

 

 STAP細胞作成に関わる真の成果があるかどうかの結論はさておくとしても(近日中に出るでしょう)、上記の事だけでも批判は免れないと思います。このようなことは稀で、滅多に起きないと考えていいでしょうか。そうではないと思います、学部レベルのレポートなどで実際、論文どころかWebサイトの資料のコピーアンドペーストやわずかの改変しかないことが問題になっています。ましてや論文と言う、限られた読者しか読まない論文からこうされたら? 上記の例では同じ英語でしたから誰かが検索をかけて比較したのでしょう。ですがもし、当該部分を和訳して自分の論文に掲載したらどうなるでしょう。それを見分けるのは極めて厄介です。実は私はこれに少し近い経験があります。学位論文ではありませんでしたが、ある研究指導をしていてその論文の1段落がほぼ引用文献の和訳でした。引用しているだけましでしたが「こういう引用の仕方はまずいよ」と言って書き直させました。学位論文で後日、今回の小保方論文のようなことが判明したらどうなるでしょうか、和文と英文と言っても釈明にはならず、一方で事前に見つけるのは非常に困難です。少なくとも私は、審査委員になった場合こんなリスクと責任を背負いたくありません。

3. 学位取得のキャリアへの意味

 1及び2に述べたことが本論で、これは付けたしです。ですが学位取得を目指している人には重要なことです。現在のグローバル化した世界において、キャリア自体も1国に限定されるわけではありません。私を始め無数の人が、海外でこう言われているはずです、「あなたのしてきたことを文章(つまり論文で)見せてください」と。全ての人が多忙なのですから、時間を費やして経歴を聴いてくれることなどあり得ません。そのその文章は既述しましたが、日本語でなど誰も読んでくれません。そして学位論文(他でもいいのですが)を日本語でしか書いてないとこう見られると思います「この人は(国際語である)英語での仕事、メッセージ発信ができない」。

 

 英語での仕事が苦手なら、例えば大学院では数年あるのですから自分で学べばいいのです、それすらも怠っているという事であれば弁解の余地はありません。また、大学院から言えば卒業者の学位論文は、全体としての成果物です。どのような成果物があるのか見るときに、現代において特にグローバルな人材を養成することを主眼とする大学院での和文の成果物など、ほとんど意味はありません。グローバルな言語で情報発信をしていく、それは基礎科学、応用科学そして社会科学に至るまで当然のことで、「ここは特別だ」などと言うのは意味を成しません。

 また、研究者としてのキャリアで有利なのは基礎科学の分野の人々だから、こういうことは意味がないんだという議論があります。それは明白に間違っています。それは改善するべきであってもキャリアを判断する側の問題であって、どの分野でも独自の仕事をしていくことの価値は変わりません。CellScienceNatureと例えばSocial Science and MedicineImpact Factorが違っていてもそれは別の話なのです。

 

 以上、冒頭に書いたことの付けたしではありますが、記載しました。これを読まれた人々が、「冒頭だけでとっくにわかっている話だ」と思われたのなら、それは非常に嬉しいことです。

追加事項

 STAP細胞論文の筆頭著者が論文取り下げに同意したというニュースが流れました。研究者本人のペナルティは当然ですが、おそらく理化学研究所もまた社会的責任は免れないでしょう。研究成果としての論文内容について、厳しく研究倫理が問われる、それは当たり前ですがそういう時代だということです。

 

 そして学位審査委員に直接批判がいくことはないのかもしれません。ですが、博士論文の冒頭文章(英文)が、天下のNIHのサイトに掲載された英文20ページに酷似している(ほぼ同一)であることも審査委員はわからなかったのか、と言われたら返す言葉がないでしょう。

 

 自分に身を置き換えて、つまり学位審査委員になったと考えてみます。現在自分がアクティブに共同研究者と研究しているいくつかのテーマならそこまで(20ページ!)やられたら気づくかもしれませんが、100%の自信はありません。そして例えば1ページまで(2-3段落程度)でとなったら、そして英文情報が和文に置き換えられたら、間違いなくお手上げで、他の数人の審査委員を含めて誰かが気づくことを祈るばかりです。

 

 現在、英文同士であれば他の先行論文と比較して(過度かどうかは別として)類似があるかどうかチェックできます。近いうちにですから、博士論文も印刷物だけでなくファイルで提出させて、このチェックを受けることが条件になる気がします。実際私が主体となって進めたゆうぽうとスタディでも、そういう指摘を受けました。チェックすると、それは同じゆうぽうとスタディの既出別論文の「方法(Methods)」のところだけでした。同じデータベースからの血液性化学検査の記載が似ている、換えてくれと依頼を受けたのです。これ自体は同じ検査ですから似たような表記になるのは当たり前ですが、「李下に冠を正さず」ということでしょう。結局指摘された全てに対して、表記を変えて対応しました。一方、英文と和文ならこのシステムもなく、事実上野放しです。

 

 以上のことから結論として、2つのことが言えます。

・(特にグローバルな)人材を育成する大学院の学位論文は英文でなければならない

   メッセージが世界の人々に役立つと同時に独創・倫理性も厳しく吟味される

・学位審査委員は科学論文の根幹である独創性を担保する知見・能力が必要である

   (例えば)フィールドの職業人を審査委員に採用するならリスクは大学院が責任を持つ