大学院での学び(教員としての自戒)

「大学院での学び」日本における大学院教育は、多くの問題を抱えています。その中で教員たる自分が意識していることは以下のことです。

 

・教員として大学院生にどう接しているか

 当然ですが大学院は成人高等教育の場です。また実際に社会人経験を積んだ人も多いです。そうした経験は、当たり前ですが、教員も知らない世界での学びが入っています。成人高等教育においては、教授は単に一方向性の情報伝達をするべきではありません。

 学習者がこれまで習得してきたうえに、大学院においての学びを付加し、それらが融合した「結晶性知力」をつけるようにするべきです。双方向でのやり取りでは教員もまた、自分の経験など持てるものを学習者と共有していくことになります。このことは実務系の大学院においては特に強調されるべきことです。このため、教授にその分野での豊富な経験と業績が必須となります、当たり前ですが(*)。それがない場合、以下に述べるような「教員としてしてはならないこと」につながっていきます。

(*)第一、経験と実績がなければ、院生に対して自分をオープンにできないでしょうね。


・教育内容は大学院にふさわしいか

 上記と関連しますが再度、大学院は一方的な座学の場所ではありません。成人高等教育の場所として、Millerの学習ピラミッドを持ち出すまでもなく単なる座学(講義)の教育効果は5%でしかなく、学習者の積極的な参加の度合いに従って、その効果は増していきます。ですからどのようにするべきかは、すべきでない反面教師の例を挙げれば明らかです。

 

大学院における「下の下」の教育例→すべきでないこと

(1) 教壇に座ったまま教科書のことしか扱わず、そして一方的に説明するのみ

→教育効果たったの5%、教科書を使うなら予習の材料で講義ではその上に立った一段高度なDiscussionをするべき、「教科書説明してそれで大学院の講義をして楽ちん」など思い違いも甚だしい、学生はつまらないから眠くなるし、翌年度からその講義は良くない評価になるでしょう。もし自分が院生だったら、可能ならその科目の履修は取り消します。わざわざ大学院まで来てそれでは、意味がないので。

 

(2) 英語の教科書を院生に輪読させて、自分はその司会のみ

→大学院で教科書を使うなら、それは範囲を決めて予習の資料にして、実際の講義ではそれをベースにした深いDiscussionをすべきです。実際英米の大学院はそうしています。「英文の教科書を学生に抄読させてそれで大学院の講義として楽ちん」など(再度)思い違いも甚だしい、学生はつまらないから眠くなるし、翌年度からその講義は良くない評価になるでしょう。こういう形式をとるなら、教授は教科書の内容を踏まえたさらに高度のDiscussionの場とするべきで、これもまた教育側の経験と実績が問われます。かつ英語の教科書を使うなら、その教室での会話は英語であるべきです。(再度)もし自分が院生だったら、可能ならその科目の履修は取り消します。わざわざ大学院まで来てそれでは、意味がないので。
 多くの良き学習者に大学院に入ってもらうためには、パンフレットや外見の取り繕いはやめて、地味であり労力もかかりますが、良き教育内容を提供すべきです。それはひとえに、教授陣の経験と実績、そして熱意にかかっています。このために必要なことは徹底した情報開示と、学習者からのフィードバックに耳を傾け改善していくことです。


Disclosure is Panacea.(情報開示は万能薬である)