このページは、若手研究者との様々な対話を記録したものです。1名との対話とは限りません、同じテーマであれば数人とのやりとりをまとめています。

若手研究者は講演や書籍より自分の作品(原著)を作れ!

若手研究者S「先生のこのタイトルのヘッダーですが、意味を教えてください」

IM Mentor「ほう、そこに目が行ったか、君もなかなかだね。どう思った?」

S「はあ、なんとなくわかるのですが、それほど差があるものですか」

IM「大有りだよ。「科学の道標」に、本当の意味で参加する方法は自分の作品を作る以外にないからね。プライマリ・ケア、地域医療では若い世代からもてはやされる人がいる、僕の母校の自治医科大学でもそう。枚挙にいとまがない。だけど、きちっと自分の作品(原著)を作ってないので、後になってそれなりのポジションになっても、「その人でないと語れないこと」が語れないんだ。独創性のある仕事は、原著にもなるし、他の人々が聞く価値のあるものでもある。逆に、誰でも言えるようなことを何度も聴かされると、うんざりするからね」

S「なるほど、先生はそういう思いをしてきたから、研究をするんですね」

IM「そうだよ。研究者(特に若手)の本当の名刺は、だから原著論文なんだ。一つ例をあげようか」

S「お願いします」

IM「僕が地域在住高齢者で外出活動性と死亡の関連について研究を行って論文にしたのは知ってるね。あれはコホート(前向き)研究だが、僕はそれを実践しているのでリアルな体験として話せるのだ。教科書に書いてある知識を上っ面に教えるより、はるかに学生たちには響くみたいだよ。例えばこのコホート研究では、どうやって仮説を作ったかの前に、協力してくれる理解者をどう作ったかを話す。5年間の追跡率86%を達成するための試行錯誤も語ることができる。そして、疫学用語である相対危険度とオッズ比も、生きた言葉として語れるんだよ」」

S「それはよくわかります。講師のリアルな体験を話せば、学生は印象深いでしょう」

IM「だからこれもReal case-based learning」なのさ、研究のね^^ それに後になって本を作るにしても、そういった著者の成果から構成されているものとそうでないものとでは、どちらが価値があるか、言うまでもないでしょう」

 

関連リンク:巨人の肩の上に立つ

上記リンクより

学術分野においては、研究者はアーカイブを活用し、また自身の成果をアーカイブに加えることが死活的に重要である」全くその通り!!

なぜ論文(査読付)でなければ業績と言えないか

若手研究者A「数か月前に学会発表した内容ですが、論文にしようと思いつつ進みません」

IM Mentor「それはConference arrestだね。Design/protocol arrestと並んでよくみられるものだよ」

A「前からお聞きしようと思っていたことです、学会発表では業績にならないのでしょうか。」

IM「ならないことはないけど(特に若手では)、でも業績と言う意味では低いね。真に研究業績と言えるのは査読を経た論文だけだよ」

A「それはどうしてでしょう?」

IM「論文とは、自分たちが見つけ出した価値があると信じるメッセージを、他の人々に伝えるものだ。では信じるメッセージなら何でもいいか? そんなことはないよね。必ず第3者によるチェック(peer review)を受けなければならない、でないと好きなことを言いっぱなしになる」

A「それはどういう意味でしょう」

IM「僕たちが今得ている知識は、先人の研究と言う労苦から生まれたものだよね。研究者になるということは、そうやって営々と続く「科学の道標」を作り上げる作業に自分も参加するということだ。後世の人から見て、あの時代にこんなことを研究され解明されていたということを示す。それらがWhat is already known、「知」の円状構造で言えばBの領域を広げていく。そして後世の人たちに、何を解明すべきか(What this study adds to be examined)を指し示す」

A「はい、それはわかります。でもそれは査読(peer review)付きでないといけないのですか?」

IM「(微笑)考えてごらん、後世の人はその時代にある研究者が言わんとするメッセージを、それがその時代に議論されたことで一応信用するよね。あるいは同時代でもその場所にいない読者はみんなそうだ。この場合査読がそれにあたる。著者らの言いっぱなしでないということだから」

A「なるほど、そうすると...」

IM「学会発表や査読なし論文は、本当の意味で「科学の道標」に参加しない。だから業績とは言えないんだよ。実際、研究費申請例えば科研費でもこれらは扱いが低い。出せる場合でも、出し過ぎると不利になるともいえる。招待講演であろうと同じだね」

つまらない地域医療関連の集会・フォーラム

若手研究者B「専門医で長年おられて最近地域医療をされている先生から、地域医療関連の集会(フォーラム)には得るものがほとんどないものがあってつまらないという話をされました。実は僕も同じ集会でそう感じたのです」

IM Mentor「僕はもう何十年も前からそう感じているよ。なぜそうか、そしてその先生や君が感じたかわかるかい」

B「漠然とは、僕も学ぶものがないなあ、と思いました」

IM「その通り。例えば地域医療、プライマリ・ケア、家庭医療、へき地医療などどれでもいいのだが大事だと言ってスローガンにあげ、その時々のトピックを持つ人にきてもらって壇上で話してもらうだけなら意味がないだろ」

B「はい、漠然とは。でもどういう意味でしょうか」

IM「それだけなら何の進歩もないからだ。その時々に話題の人と場所を変え、同じことを繰り返してもその分野は深まらない。そういう集会に毎年出ても、本質が進歩せず変わり映えせずにいるまま、それならうんざりくるのもわかるだろう。例えばへき地医療を例にとろうか。我が国では、へき地保健医療対策が数十年にわたり国(厚生労働省)により策定されているね」

B「はい、それは聞いたことがあります」

IM「であればへき地医療の集会で話されるべきは、馬鹿の一つ覚えみたいに傷を舐めあうような話ではなくて、そうした医療政策に貢献できる、しっかりとした調査研究の成果だろう。どのような分野であれ発展させるには、そのような学究的仕事が欠かせない。しかるに、大学のような教育・研究の場が企画する集会(フォーラム)でさえ、そういう視点に欠如しているのはどうしたことか。これが、元を正せば、例えば地域医療「学」の社会的認知が遅れている理由の、大きな一つだよ」

B「よくわかりました」

IM「思い起こせば私の恩師、故五十嵐正絃先生が目指していたのもそういうことなのだ。自分を含め、先生の薫陶を受けた人々はそれを忘れてはいけないね」

なぜ研究指導者が指導できないのか

幾人かのやりとりをまとめて対話形式にしています。

 

若手「例えば教授なら研究指導できるものと思っていました」

IM「かつてはそうだったかもしれない、でも今は違うんだ。でもね、それはある意味で当然かもしれない。医療系で言えば、臨床・教育・研究と3本そろった人がほんとに稀になってきているからね、そういう人は大教授と言うべきだろう」

若手「今はそうだと思えばいいのですね」

IM「うん、だから、研究ができなくても他の分野で貢献している人はいいんだよ。Guiltyつまり非難されるべきは、自分に実績と能力が無いのに大学院で院生を教える人だ。自分がしたこともないのに、教えられるわけがない」

若手「そんなことよく考えずに大学院へ入ると危険ですね」

IM「そうだよ、高い学費を払って無駄骨なんて嫌でしょう」

若手「だから教官の業績を調べるわけですか」

IM「どんな職業だって分野だって、自分がそれほどしたことがないことを人に教えられるわけがない。院生が書くのは学位論文だ。それに相当するものと言えば筆頭原著だね、無論英文に越したことがない。ちゃんとした雑誌に掲載された論文なら必ずPubMedに出ている。そこで指導教官になる人の業績を調べればいい、簡単だよ、英語でフルネームを入れたらいいんだから。同姓同名もいるだろうがおおよそ検討はつくでしょう。筆頭原著が5本もないなんて、本来大学院(准)教授の資格はないね」

若手「手厳しいですね」

IM「Inoue Methodsセミナーを開いて、多くの院生が指導の問題で悩んでいることが分かった。その多くはここで書いているように、指導の問題だよ。それに僕は過去、とんでもない指導者のせいでうつになったり、研究の道をあきらめた人を知っている、それも複数。院生自体の問題もあり得るけど、最初から指導できないのに
院生をとるなんて論外でしょう」

若手「もし運悪くそういう指導教官に当たったらどうしたらいいんでしょう」

IM「僕の知り合いで、別の講座で学んで学位を取った人を知っている。しかし、メンツがあるからそれさえ許さない場合も多い。そういう場合、早めにその院をやめてどこか別のところへ行ったほうがいいこともある」